毎年お盆になると祭りや盆踊りを撮影しに行く。でもずっと太平洋側の東北へ行くことを避けていた。海は怖いからだ。お盆は天に帰られた方々が家に戻ってくる時期であり、また同時によからぬものもこの世に降りてくる時期でもある。

宮古は雨が10日近く降り続いていた。湿度は高いが、真夏だというのに長袖でも寒いし、濃霧のため日中でも薄暗い。街中でお盆の迎え火用の提灯を手にした家族連れをちらほらと見かける。

東北なまりがいい味だしているレンタカー屋のお兄さんが気さくに話しかけてくれる。
「このカーナビ古いんです、新しい別のナビもあるんだけど…使い方がわからんもんで、ははは。すみません。」
私は深く考えず「あまり古いと道が変わっていますよね」と答えると、
「震災で道が激しく変わってしまっているもんで。しかも今工事しててどんどん新しい道ができるから、私たち地元の人間はみんなグーグルマップを使ってるよ。1週間ごとに更新してるから、これが一番最新なんだよね、結局。だからカーナビ役に立たないんだよね」

私はカーナビがおいつかないくらい道がどんどん新しくなっているなんて、レンタカー屋のおにいさんに聞くまでまったく知らなかった。復興道路を作っている真っ最中だから考えて見たら当然のことかもしれないけど、結構ショックだった。

「おねーさんのいきたいホテルは、右に出てまっすぐいけば右側にあるから!」
「結局おにいさんがナビしてくれちゃったね。やっぱりナビいらないね!」
「あはは!お気をつけて!」

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おそるおそるレンタカーを走らせると、復興道路の工事中の様子がぼんやりと霧の中に浮かび上がって視界に入ってくる。
「かつて津波がここに到達した」ことを知らせる標識があちこちにあり、時には建物の2階の高さ以上を示しているところもある。

景勝地である浄土が浜を見る予定だったけれど、海岸は濃霧にすっぽりと覆われて水平線すら見えず、すべて霧の中。

私は6年前すべてを呑み込んだ海へ向かって、おろおろと怯えながら手を合わせることしかできない。圧倒的な無力感。

私には霧しか見えないけど、この海には帰ってきている方々や得体の知れないものたちがいる気配が確かにした。

寒いのでラーメンを食べた後、翌朝出発が早いので朝ご飯を買いにスーパーに寄った。

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レジのおばちゃんが私のバッグを見て「それ日本の?珍しい柄ね」と話しかけてくれた。私は南米の少数民族の手編みバッグの説明をして、気になっていたこちらのお盆の様子を聞いてみた。

「このへんのお盆はお供えに煮しめをやるのよ。でも最近はたくさん作っても孫やなんかは食べないもんでね。だから私が作ってこうやってお供え用にパックにすると、ちょうどいいってみんな買っていくのよ。」
「私の母親は八戸出身なんですけど、お正月に煮しめつくりますね」
「そうそう、このへんも正月に煮しめやるのよー。盆と正月。でも最近の子はどっちにしても食べないもんでね、あはは」
「私は煮しめ好きですよー」
「あらそう?いつ宮古にきたの?ゆっくりしていってくださいね」

他のお客さんが入ってきたので私はお店を出た。
お店のおばちゃんが明るく話してくれて、すごくうれしくてホッとしてしまった。私のどうしようもない無力感を救ってくれたのは、おばちゃんの朗らかさだった。

こんな風に書いてしまうと、いかにも薄っぺらい東北復興支援!絆!な感じがするかもしれないけれど、これが実際に私があの時に感じたことなのだ。

私は世界中どこへいっても、おばちゃんに助けてもらっている。イタリアで道に迷っても、キューバでカタコトのスペイン語で困っても、バルバドスで深夜の空港から追い出されて宿がみつからなくても、おばちゃんは優しい。

釈迦が修行中に悟る直前、行き倒れて死にかかった時に、乳粥を供養してくれた通りすがりの村の女性スジャータのように。スジャータはおばちゃんではなかったかもしれないけど。

世界のおばちゃんとスジャータとの共通点、それは母性。もしくは慈悲だ。

スジャータから捧げられた乳粥を食した後、釈迦は悟りを開いた。

そんなことを考えながらホテルにチェックインすると、宿泊客の半分強は復興工事労働者、残りは家族旅行。フロントの女性たちは語気が荒い工事関係者の対応に忙しそう。私も色々な場所・タイプのホテルに泊まったけど、ここはなんとも独特な雰囲気だ。

私はさっさとお風呂にはいってベッドにもぐりこんだ。

2017年8月14日朝5時。宮古は濃霧で視界が悪く、車の運転も慎重になる。今回の旅の目的は、菅窪鹿踊(すげのくぼししおどり)を墓地で撮ること。事前に保存会顧問の畠山さんから「雨天中止、しかもここ10日間大雨が降り続いていて当日も予報によるとおそらく雨」と事前に聞いていた。私は行くかどうか散々迷った挙句、もうここまで来たらたとえ雨で中止でも行った方が後悔しないと決めて、「明日雨でも行きます。では朝8時に墓地に伺います」と電話を切った。

菅窪は、宮古から車で1時間。太平洋沿に北上する。近隣の名勝地は「鵜の巣断崖」。海抜は約200m。

とにかくあちこちで工事をしていた。グーグルマップを頼りにしながらの走行中に、GPSが急にエラー状態になり、現在地を示す矢印がグルグルと回転し出したのには、心底動揺した。こんなの初めてだ。元あった道が途中でぷっつりと切れていたのだ。私は途中で閉ざされた道の写真を撮り、その近くにある新しい道を走った。

地図で見て海沿いを走るものだと思っていたけれど、菅窪へ行く道中はうねうねと曲がりくねった山道が続く。窓を開けると高原のようなキリリと冷たくて気持ち良い空気が入ってくる。田野畑村に入る「思惟大橋」までやって来た。橋の下を見ると随分標高の高いところに来たなとわかる。高所恐怖症の方なら足がすくむ高さだと思う。

保存会の畠山さんに菅窪の墓地への大体の道順は電話で教わっていたが「場所がわからなかったら、思惟大橋近くの道の駅で誰かに聞けばいいと思う」とのことだったので、早速開店準備中のおばちゃんに聞いてみる。
「すみません、菅窪の鹿踊をやってるって聞いて、お墓の場所を知りたいのですけど」
「ごめんなさいねぇ、私ここの集落のもんじゃないのでわからないのよ」
「あ…そうですか(落胆)。ありがとうございます(うわーここでわからないとなると苦戦しそうだ…約束の時間まで30分だけど辿りつけるかな…)」
私の凹みっぷりに気を使ってくださったのか、他のスタッフの方にも聞いて見てくださって、声をかけてくれた。
「あのね、菅窪の集落だったらこの1キロ先に行ったとこにあるけど、お墓はわからないなぁ」
「あ、そうですか…いってみます、ありがとうございます!」

電話で聞いた道順通りに車を走らせてみるけれど、どうも墓場らしいところが見つからない。アポの時間が近づいているのでご自宅に電話してみるが、不在。携帯の電話番号を聞いておかなかったことを悔やんでも仕方ないのでガソリンスタンドのお兄さんに聞いてみるけれど「ここの集落のものじゃないんでわからないです」とのこと。

私のような遠くから来るものは祭り会場なら近所の人は当然知っているだろうと勝手に思い込むけれど、祭りや行事というのは当事者かその近しい人しか知らないことがよくある。東京に住んでいたって隣町のお祭りの場所を正確に把握している人の方が少ないのと同じことだ。

8時を少し過ぎたあたりで電話に奥様が出てくださって、畠山さんは墓地にいるとのこと(そうですよね)。道に迷っていることを話すと「じゃあ、ついて来てください」とわかりやすい大通りから車で案内してくださった。

墓地は何度も近くを通っていたあたりの奥の方にあった。畠山さんと合流し、道に迷って時間に遅れたことをお詫びし、やはり今日は雨のため墓踊りは中止だけれど鹿頭の撮影は構わないとのことで、鹿踊保存会の建物へ移動する。

村の集会場のような建物。近辺は牧場でふと振り向くと牛と目が合う。建物の奥の方に鹿頭は仕舞われていた。角が大きく存在感があって、黒い肌に金色で塗られた瞳は凛々しいけれども同時に恐さも感じさせられる。

鹿踊は東北地方で広まり、雄々しいクリーチャーのような非リアル系の造形の鹿頭の鹿踊の方がよく知られていると思う。こちら菅窪鹿踊は本物の鹿に近い造形のリアル系。この系統の鹿頭は菅窪と愛媛県の宇和島にしかない。

菅窪鹿踊の起原伝承はこうだ。

「鹿島神宮の御祭神である武甕槌ノ尊(タケミカヅチノミコト)が戦いの際に火に囲まれ、身の危険がせまった時にどこからか無数の鹿が現れ、湖に飛び込んでは身を濡らし、駆け上がっては火の中を駆け巡ることを繰り返した。これによって猛火は消え武甕槌ノ尊の安全は守られたが、火が消えるとともに鹿も姿を消した。武甕槌ノ尊は感激し、その報謝の為に「鹿踊」を創始した。」
「菅窪へ鹿踊が入ってきたのは、武蔵国秩父の畠山氏一族が、源頼朝幕府の命によって蝦夷に備える為に入ってきた。関東往復の際「鹿島鹿踊」を知って、請来したのが始まりとされている。その後江戸中期、念仏踊を取り入れ神前演能だけでなく仏前演能も行うようになった。」
−−菅窪鹿踊 小冊子より

私は事前に調べていた時に見た「浄財」と書いてある賽銭箱の上に鹿頭が鎮座している写真が気になっていて、畠山さんに聞いてみた。
「鹿頭が賽銭箱の上に乗っているのは、どういう意味があるんですか?」
「鹿は神の使いだからです。」

私はこの後東京に帰ってから春日大社の宮司さんであった葉室頼昭さんの本を読んでいたのだが、そこにこう書いてあった。

「どうして鹿島の神様がシカに乗ってこられたかというと、シカというのは不思議な、未来を見る能力を持った動物であると言われています。『古事記』にも書いてありますが、吉凶を占う占いにはよくシカが関係しています。いちばん有名な占いというのは、シカの肩甲骨を焼いて占うというのがありますね。だから、そうした不思議な予知能力のあるシカを神獣として崇めていた。」
−−「神道 見えないものの力」葉室頼昭 より

シカの骨の占いーー歴史の教科書で出て来た加持祈祷のこと。今でも東京の御嶽山では加持祈祷の儀式が行われている。

そうか、あの加持祈祷のシカなのか、だからシカを崇めての鹿踊なのか… !
アニミズム的な、まるでアフリカのドゴン族の伝説で、「砂漠にワニを連れて行くとそこから泉が湧く」…みたいな自然崇拝。なんだかすごくゾクゾクする。

結局雨で中止になってしまい墓踊りは撮れなかった。今年の春夏はプライベートなことでも思うようにいかないことが多く気分が沈みがちで体調もあまり良くなく、撮影に行く気力も今ひとつという状態が続いていた。

でも思い切って三陸に来てみたら、なんともファンタジックなところで驚いた。極楽浄土のようだから、浄土ヶ浜。幻想的なネーミングの浜を通過してたどり着いたのは、霞みがかった牧場。まるでジブリのアニメの世界のようでもある。こんな深い緑に囲まれて安らかに眠りについているご先祖様方の慰霊のために墓場で勇壮に踊る鹿踊…が撮れたらよかったが、お天気ばかりは仕方がない。けれど本当はせっかく時間と労力をかけたのだから、いい写真撮りたかったなぁ、という残念な思いは拭えず。なんでも損得で計算してしまう自分の悲しい性。

それよりも、鹿踊について気になっていたこと。

いろいろな動物がいるけど、鹿踊りってなんでシカなんだろう?という素朴な疑問。私なりの仮説を立ててみる。

シカは神の使い。日本神話に登場する武甕槌ノ尊が戦火に囲まれた時に鹿がどこからともなく現れ助けてくれ、その報謝として鹿踊りを創始したと伝えられている。また加持祈祷で使われるほどシカは特殊な予知能力を秘めた生物だ。だから人は鹿の能力を神獣として崇め、鹿踊を舞い神に奉納し、いつしかそれは念仏踊りのエッセンスも加わり祖霊崇拝の意味合いも兼ねながら、現在まで連綿と続いているのではないか。

もちろん菅窪鹿踊の起源は先に書いたものが正式だ。各地の鹿踊りの起源は諸説あり、地域や流派によってもさまざまだ。殺された鹿の供養説や、山で遊ぶ鹿の野性を真似た遊戯模倣説などもある。獅子踊りと表記するところもある。始めた先人たちとその祭りに関わった人たちがああだこうだと工夫して永い時間をかけて現在まで続いている、その結果としての装束や踊りが美しくて独特だから惹かれてしまう。

だから、わからないことも楽しむ姿勢が、今に生きるものとしてはちょうどいいのではないか。わからないからこそ、のらりくらりと生き残ったということもあるのかもしれないのだから。

そんなことを考えていてふと気がついた。自分の思い通りにいかないからといって、それが私の人生にとって結果的にムダなこととは限らない。どうなるかはこの先まだわからない。

そもそもの自分の思いの方向性が違っていたことを教えてくれているのかも。その欲しがっているものは自分にとって本当に重要なものではないのかも。捕らぬタヌキの皮算用に必死になってしまっていたけど、他人の持ち物を羨ましいと思わせる世の中の仕掛けにひっかかって惑わされているだけかも。

三陸のお盆はこんな当たり前すぎることを私に教えてくれたのかもしれない。

−−2017年8月に旅と祭りのプロダクションB.O.Nのウェブサイトに書いたものを転載しました。