人の心の中に魔というものが存在し、日常生活ではひっそりと息を潜めて身を隠しているとするならば、いつか表に出るチャンスを狙っているのかも知れない。ヘルペスウィルスのように、体の中で普段は悪さをせずにじっとして、本人の免疫力が低下した時に活動を始める。


−−−魔(ま)とは一般に、人の心を惑わす悪鬼(悪魔)や災いをもたらす魑魅魍魎、人を一事に熱中させるもの(例:詩魔)や一事に偏執すること(例:電話魔)などを指す。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

素知らぬ顔で人々は「普段の暮らし」を営もうとするけれど、当たり前の日常をつつがなく送るのにストレスと無縁という人は少数派だろう。もし日頃の不平不満が溜まってどうしようもなく自制が効かなくなった時、年に1度は暴れまくっても許される日があるとしたら、人は一体どんな行動を取るのだろう。

数年前の10月、私は九州の友人を頼りに飛行機とレンタカーを利用して大分県国東市国見町櫛来(くしく)の岩倉八幡社を訪れた。起源も由来も一切不明の奇祭と名高いケベス祭を目に焼き付けたくなったからだ。電話で取材を申し込むと「取材は構いませんが、祭りの場で何が起こっても来場者の自己責任です」と宮司さんは言った。

祭りのハイライトは、「奇怪な面のケベス」 v.s.「白装束のトウバ」による火を巡るバトルから始まる。ケベスが燃える炎に突進するのを、シダの山を守るトウバ代表が防ぐ。ケベスは何度も果敢に突入を試み、トウバに妨げられるが、ついに9度目で成功して、棒でシダの山をかき回し火の粉を天高く散らし、燃え盛る炎の中でケベスが猛烈に暴れ回る。

ここで私が面白いと思ったのが、ケベスが炎に突入した後、ケベスだけでなく、シダの山を守っていたトウバ達までもが、火のついたシダを持って境内を走り回り、見物者に容赦なく火の粉を浴びせたところだ。最前列で砂かぶりで撮影していた私は、魔が差したとはこのことか、と呟きながら火の粉からカメラを守り、必死に走って逃げた。

尻をたたかれ、追われて逃げ惑う人々。転倒する老人。トウバが情け容赦なく本気で燃えているシダを叩きつけるので、見物者は化学繊維の燃えやすい素材の服は着て来ないように神社サイドが注意喚起しているくらいだ。

トウバの少年が祭りの場の高揚感に触れたせいか、お年寄りの見物者に向かって笑いながら火の粉を叩きつけるのを見た。そのシーンは轟々と炎が燃える中での魔術的な美しさがあった。人間だったら誰もが持つ、個人差はあれど決して誰にも見せない秘密にしている欲望や怨みや狂気や淺ましさ、そういったものが炎によって焼かれて天に返っていくその風景は、豪快でありながらどこか安堵してしまう、いつの間にかに惹きつけられる魅力があり、ただただボーッと眺めてしまう。火の粉がかかると無病息災だと伝えられているが、悪しきものを燃やす火のご加護が得られるのだから、さもありなん。

境内は悲鳴と歓声が響き、最後にケベスがワラヅトを地面に叩き付け、翌年の五穀の豊凶を占う。

人間の心に知らず知らずの間に溜まった邪気を、公の場で解放させること。年に一度の祭りの場で行われることで、生きる人々の心の中に潜む生々しい感情を、炎の力で燃やし尽くし、手放して昇華させること。これらが祭りに本来備わっていた役割だったのだろうか。今日の日本列島での祭りでは、会場での危険を回避し参加者の安全を守るという名目で、事前にそういった怖れのある要素は排除されるケースが多い。リスクヘッジは今の社会でとても重要視されていることだが、そのため、日常のタガを外してくれるような祭りに出会うことが難しくなってきている。

心のガス抜きが現在でも機能している祭りのうちの一つが、ケベス祭だ。