太鼓台に担ぎ上げられた、ほどよく写実的ではない、カエルの装束(パッと見は着ぐるみ)。男衆がカエルの乗った太鼓台を大きく振る。カエルも上下左右にユッサユッサと揺すられて困惑気味ではあるけれど、道ゆく人々に愛嬌たっぷりに手を振る姿はちょっと楽しそうだ。

奈良県吉野にある金峯山寺の「蛙飛び行事」に出現するカエルはなんともユーモラスでかわいらしく、ちょっと滑稽に見えてしまうけれど、この姿が他人ごととは思えなくなると、どこか物悲しい姿にも見えてくる。

不憫なカエルは一体何をしたのか。ある男が蔵王権現(神仏)を侮辱し、暴言を吐いたところ、鷲の鋭い爪に捕らえられ、崖の上に置き去りにされてしまった。その後、金峯山寺の高僧が男をカエルの姿に変身させて救出し、男(カエル)は無事に山を降りることができた。

下山できて一安心だが、自分の体はカエルのまま。これでどうやって人間社会で生きていけばいいのだろう。哀れなカエルは、侮辱した蔵王権現の仏前で、高僧の読経により、その法力によって人間に立ち返ることができたそうだ。

そんな伝説を表現した「蛙飛び行事」のワンシーンで、反省したカエルが聴衆の注目の的になりながら、会場の花道をぴょこん、ぴょこんと、膝を床についたまま両腕を使って一歩ずつ、蔵王堂までゆっくりと進んでいく。歩みの遅いカエルに若干のイラつきを覚えている民衆の好奇の目にさらされ、まるで公開処刑のようだ。

でも、私はこの無様なカエルを笑うことはできない。私にも相手が神仏ではないにせよ、他人への侮辱行為には少なからず心当たりがある。しかも口には出さず、心の中で密かに罵る。それは目に見えないけれどしっかりと心の底に溜まる。ゲームのテトリスのゲームオーバー寸前のように、もうどんなに落ちてくるブロックを素早く変形させても、うまくピースがはまらないまま詰んでしまい、気持ちばかりが焦るのに、もう為す術もない。

「他者を罵ると、バチが当たる」という教訓を、非常にかわいらしくキャッチーな表現で一般人に伝えている側面もある、蛙飛び行事。この場合は相手が神仏だったからこそ大きなダメージをあたえられた訳だけれど、インターネットでの誹謗中傷行為が犯罪として認められ始めているこの今の時代にこそ、必要とされている行事なのかもしれない。